思考(2)

これは実話に着想を得て作成された純文学学術作品です。

起きた時、体に不調があるわけではないが違和感を感じている。

私はサプリメントを飲んでいる。心配性というわけではない。自然と集まってくる家にいるのだ。防災時に野菜が食べられなくなった時に備えて、便秘をしないように食物繊維が豊富なサプリメントを買った。賞味期限があるので災害には合っていないが毎日6粒飲む。緊急事態の時、食べるものがなくても便秘するのだろうか。野菜がないなら、ビタミンも取れないかもしれない。総合ビタミン剤を毎日1粒飲む。正確には健康食品なので食べるという表現が正しいのかもしれない。

次は亜鉛だ。我が家は全員と言っていいほど朝方調子が悪い。そこで私は亜鉛を試しに日本で飲んでいて、余りを台湾でも飲んでいた。いつの間にか追加の亜鉛が私のもとに届き、毎日1粒飲んでいる。調子は特によくない。科学に騙されているのだろうか。活力を得られると謳って、例えば、100mをいつもより0.1秒早く走れるとしよう。では、このサプリメントを飲んで幸せなのだろうか。亜鉛不足で死なないように一生飲み続けるのか。今のところ疾患もない私が亜鉛不足に怯え、毎日サプリメントを飲むことは自分を顧みて滑稽だ。だがやはり今日も飲むのだから、飲むということに安心を求めているに違いない。

洗濯物を干していると、外の様子で不調の原因が分かった。偏頭痛だ。雨の前、雨の前日は大気圧が変化するのか、頭痛がする。どんよりとした空模様は同時に頭痛を呼び覚まし、サプリメントで手に入れた体の均衡を一気に打ち砕く。

自然の強大な力に勝手に押しつぶされながら、妻の生理痛に効く日本から持ってきた薬を飲む。30回分はあっただろうが、ほとんど私の頭痛薬として使われている。もうあと2回分しかない。後2回は雨の前触れに偏頭痛が起きてもしのぐことができるが、3回目はどうなるのだろうか。この国で同じ薬が手に入るのか。田舎で育った私は就職で都会に行き、今は結婚でまた田舎に居る。

田舎という住処から抜け出すことはできないのだろうか。存外自分は田舎が嫌いではない。ただ不思議なのは、ここは空気も汚いし、下水の臭いは漂っている。野良犬も野良猫もいるし、24時間365日と思えるほどずっと駐車違反をしているトラックがある。むろん私の車ではない。見通しの悪い交差点に置いている車なので非常に目障りだが、外国人の私が警察に通報するわけにはいかない。田舎らしい田んぼがあるわけではないがここは田舎だ。私はこの地を開拓しに来たわけでも奪いに来たわけでも、買いに来たわけでもない。だた、家族と暮らすだけなのだ。家族以外の関心を捨て去っているからこそこの田舎を嫌いとは思わないのだろう。関心を持たないことは私の心にとってサプリメントになっている。

この町で私は偏頭痛に効く薬を一人で買うことは叶わないだろう。薬局で日本のように簡単に市販薬は買うことができるのだろうか。処方箋を見せろとすごまれたり、英語が通じずにビタミン剤を売られたらどうするのか。私は頭痛薬を買ったと思い安心しきって家に帰る。妻に買った物を見せたところで、全然違うものを買っていると指摘されて頭を抱えることが容易に想像できる。

中国語でも頭痛は頭痛と書くのだから、薬が陳列されていれば買うことができるだろう。だが陳列されているかどうか確かではない。最悪のパターンは陳列されていなくて、店員に話しかけなければいけない時だ。この国の人間は英語を話すわけではないので多くの人に英語が通じるわけではない。中国語を話すことになると私の方に問題がある。聞き取れないし、話しても相手は私の中国語を聞き取れないのだ。

中国語は同音異義語は無数にあり、抑揚で意味が変わる。語尾を上げ下げすれば済むという話ではなく、中国語には一漢字一漢字上げ下げする音が割り当てられている。この聞き分けと再生がとびきり難しい。だから頭痛という2文字を伝えるだけで、この外国人は何を言っているのだろうかと言う疑問の顔が目に浮かぶ。紙に書いて伝えるしかない。だがそのあと、どんな頭痛だ、と聞かれたらどうやって答えるのだろうか。刺すように痛いです。押すように痛いです。頭の中を揉まれています。これを書き始めた暁には会話は成立していないだろう。元気そうなのでビタミン剤を売っておくかと思われたら私の目的は達成できないのである。

頭痛があったとしても生活は一切止まらない。仕事があるときは仕事することになる。偏頭痛があったとしても、私の場合は動けなくなるほどの不調になることはほぼない。頭痛のために集中力、注意力だけでなく会話力などの社会性も低下する。妻に迷惑をかけるタイミングを生み出してまう時の一つである。このような時、自覚のある私は無用なトラブルを起こさないために人を避ける。なるべく動作もしない。

妻とは別の階で休んでいると妻からどこにいるのか尋ねられる。家の中に居るのに所在を聞かれるのだ。二次元で言えば同じ座標に居るのに姿が見えないとすぐに私を思い出し関心を寄せてくれる。社会的な動物にとって、他から思われることはこの上ない喜びだろう。喜びを栄養に頭痛が収まってほしいものだが、雨の前の自然現象には打ち勝てず改善しない。

この国は乾季と雨季があるのか、1か月以上雨が降らない時もあれば毎日のように夕方と夜に雨が降る時期がある。天気予報が当たりやすいかと思いきや血液型占いのごとくあまり当たらない。バイク社会なのでスコールが来ても雨具なしで運転する人も良く目にする。あまり気にしないところが肝心に違いない。解決のしようがないことに対して悩む必要はない。諦めと追及は背反しこの事実すら悩みの種になりえる。悩むことを捨てるしかない。

雨の日の楽しみは一つもないのだ。洗濯物は乾かない。散歩はできない。雨が跳ね返るうるさい屋根からの音に気を紛らわせるしかない。楽しみを用意するために雨水を溜めることも考えたが、雨水は溜めて楽しいものではないだろう。窓の掃除もベランダの掃除も雨の日の楽しみとは到底言えない。

ただ一つ、雨の日の楽しみはある。温泉だ。私は温泉が出る地域の出身だ。気軽に温泉を楽しむことができたあの頃が懐かしい。頭痛の時に温泉に入ると気持ちが落ち着き、血管が広がり頭痛が和らぐ。頭痛が始まると雨が降る。雨が降ったら温泉に入る。これで解決するのだ。薬でもサプリメントでもなく、悩むことを止めるのでもない。温泉を雨の日の楽しみすればよいのだ。だが家族に台湾で温泉を家に作りたいですとは到底言えない。中庭付きの家に作り変えることもできない。温泉の素で一時を過ごす。

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