思考(1)

これは実話に着想を得て作成された純文学学術作品です。



はじめに

インターネットはお金に支配されるのか。世界は民主主義によって生存できるのか。年金はもらえるのか。主夫、健一の悩みは多岐にわたる。「安心できるのは死ぬ日だけだ。」妻から言われたこの言葉は、悩み続けて安心できない心に長く住み着いている。



朝7時30分、妻の目覚まし時計が鳴ると同時に目覚める。 目覚めたものの体も脳も全く動いていない。活動を開始した方が良いことは重々わかっている。だが、動けないのだ。金縛りにあってもいないし、朝動けない呪いにかかってもいないと思う。いろいろ考えているうちにすぐにまた眠りにつく。

8時10分、二度目のアラームが鳴る。電話を受けた時と同じ音のアラーム。毎朝、電話が来たのかとびっくりするが、これが功を奏して一度目のアラームよりもよく目が覚める。目が覚めると一番に歯磨きをする。妻は毎日、「歯磨きした?」と聞いては「口が臭い。」と言い放つのである。歯を磨いても、舌を磨いても口が臭いとはどうしたものか。毎朝この悩みを抱えながら、惰性で歯を磨く。

歯を磨き終えると、洗濯物が待っている。前日の夜、洗濯機のタイマー機能を使って朝には洗濯が終わるようにセットしておいた。このルーティンは365日変わらない。主夫に休みはない。寝ぼけたまま洗濯物を干すが、朝なのに汗ばむほど暑い。台湾の気候では、6月の朝でも非常に暑い。朝から汗で体がべとつき何とも言えぬ不快感を感じながら洗濯物を次々に干す。「朝」という清々しい響きとは裏腹に、会社員時代とは別のストレスを腹に溜める。妻といるからか、こんな気持ちでも生きていけると思うのだ。

洗濯バサミは次々と買い足されたのか、4種類ほどの洗濯バサミが白いバケツに入っており不揃いだ。私は神経質なので、タオルやズボンを干すときには同じ種類の洗濯バサミを選択的に2個選んで使う。こうすると、次に使う時、2個同時に外せるのだ。大きさが違う洗濯バサミを使うと同時に外せず、2倍の労力が発生する。このことを義母は考えない。2秒を削りながら家事を進める。

干し終わると、第二回目の洗濯が始まる。我が家では、衣服とタオルの洗濯は別々にしなければいけない。私の好みではないが、妻の家族と暮らすには譲歩が必要なのだ。今、目の前の30分を犠牲にする代わりに、妻の家族と平穏な生活を手に入れる。目先の利益にとらわれてはいけない、副次的な効果を生むために、好みでないことも受け入れていくしかない。

なぜ衣服とタオルを一緒に洗わないのか。これは、衣服に繊維が付くこと、タオル類はあまり汚れていないので衣服の汚れが移ることを懸念していることに由来する。もともと、義母は科学的なものが嫌いで、来台した時には衣服洗剤のみで洗濯機を回していた。柔軟剤、衣類漂白剤も使わないため、洗剤の力を信じて、肌に直接触れる服についた化学物質から受ける人体への影響を減らそうとしていたのだろう。家族への愛なのだ。人体への影響を考えて、電子レンジもなかった。

洗濯ものについてはまだある。ズボンの干し方が私と義母では異なる。義母はズボンは裏返してポケットなどの布が重なった部分を確実に乾くように干したいのだが、私はあえて裏返さない。畳むときに裏返ったズボンをまた裏返すという作業が生まれるからだ。主夫は家事をするわけだが、一日を48時間過ごしているわけではないので、作業2倍になると、家事以外の人生を犠牲にして短くしているようなものなのだ。乾かないなら、乾くまで放置すれば良いが、義母は気に食わないらしい。また、ベランダで干す位置にも相違がある。義母はベランダの手すりに衣服が接触するほど物干しスタンドを手すりに近づけて、日中の太陽の光を当て、1ジュールも無駄にしないとの気合でものを干す。太陽に臭いはないが、良く乾いた良い匂い。太陽光で殺菌など多くの恩恵を受けることができるだろう。しかし、風が吹くと手すりに洗濯物が引っかかり、物干しスタンドからハンガーが外れて床に落ちる。床は土があるので、また洗うことになる。手すりも土が付いているので、風で手すりと服が接触するとやはりまた洗う必要がある。だから私は最も手すりから遠いところに干すようにしている。

洗濯を分けてやると一日に220リットルの水を使う。分けずにやると180リットル。時間も水も節約できるが、我が家では分けてやるしかない。

朝はまだ終わらない。ありがたいことに、朝食は義母が用意してくれる。毎朝コーヒーがあるのだが、私は朝コーヒーを飲むとあまり体調が良くない。だが何か月も続けているうちに、体は慣れてきて、そう悪い状態にならなくなってきた。ホルモンバランスがかわったのだろうか。将来は、昼過ぎに飲むようにしたい。朝食は、惣菜パン、クッキーなどのお菓子、卵類が多い。お米に味噌汁という日は待っていても来ないだろう。求めるものがあれば自分でやるということは鉄則だ。待っていても望みのものは来ないし、やりたいことがあるのならば自分がやるしかない。座って口を動かすだけで望むものは手に入らないのだ。

朝食後は妻の水を用意する。妻は貧血気味なので鉄分を補給するために日本から持ってきた鉄器でお湯を沸かし、冷ました水をボトルに注いで妻の居る二階に持っていく。お湯を冷ますための緑の蓋のガラスの瓶があるのだが、水が減っていると義父が普通の水を注ぐ。善意で注いでくれているので、普通の水を捨てるわけにもいかず、注ぐ必要はないからやめてくれとも言えない。だから水が少なくなってくると、私は急いで鉄器で水を沸かし義父が普通の水を入れる前に鉄水を入れる。妻に鉄分を補給させるために善意と善意が闘わなければいけない何とも悲しい世界が設立されている。妻、義父、義母はベジタリアンでレバーやお肉を食べて鉄分を補給することはできない。かと言ってサプリメントを一生飲ませるわけにも、短命になってもらうのも困る。鉄水が今の回答だが、これも尽きない悩みなのだ。

水の配達後、植物への水の配達が始まる。駐車場と家の間の通路は屋外であるため、そのスペースに植物を置いている。初めは4種類だったが、その数は増えていき30種類になった。水やり用の蛇口は水の勢いが弱く、ちょろちょろと緩いシャワーに我慢し、洗濯以来の2度目の発汗も我慢し水をやる。義父母のおもてなしによってあれよあれよと増えた植物の世話は手に余っている。水やりをしていると、「健一ならしっかりと世話ができる」という義父母の無償の信頼を心身で感じ、毎朝の活動に区切りをつける。

人種が違うことで生まれる文化の違いだけでなく、人として育った環境、人格が違うために根本的にやり方ややりたいことに違いが生まれている。目指しているものは全く同じはずなのに手を繋いでその目指すものを得ることができない。些細な日常の違和感でも目をつぶれない時があり、二度と誰とも喧嘩したくないと思っていても喧嘩を避けることができない。私は冷静を装っても、隠しきれない自己愛があり、相手を受け入れることが難しい人間なのだろう。常に自分が頭を下げるしかない。相手が譲ってくれても満足できない人間だからだ。満足する心を失い次々と理想像を作り出しては現実との差異に頭を抱える。死ぬその日までに安心は訪れるのだろうか。

デフォルト

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